【原発周辺地域の線量グラフ】原発事故:怒りをこめて、あの日を振り返る [福島原発事故関連]
福島県、原発周辺地域のモニタリングポストのデータを公開
2012年9月21日の福島民報に、原発事故当時の原発周辺のモニタリングポストのデータが公開されたと記事が出ていました。
福島県庁のHPに元データが ひっそりと 掲載されていました。(なぜかHPトップの「新着情報」に載っていません)
震災から一年半も経ってからそんなことを言われても・・・。
本来であれば、こういうデータを元に、天気予報の雨雲動画のように放射性物質を含んだ雲がどのように動いていったのか説明しれくれればいいのに、相変わらず単に生データを小出しする姿勢には怒りを覚えます。
これでは、「県民にきちんと説明する気はありません」と言っているようなもの。。。
まぁ、愚痴を言っても仕方がないので、地図や他の資料を見比べつつデータを解析してみました。
今回公開されたデータは、原発周辺の観測地点の空間放射線量の数値です。
じっくり調査してみて、以下のことがわかりました。
① 3月12日は、10:17 に福島第一原発1号機のベント開始となっているが、最初に放射性物質漏れが確認されたのは、その4時間前の 6:00 である。
一方、1号炉の炉内水位および炉内圧力のデータより、6:00を境に急激に炉内水位が下がっていることから、この頃に何らかの炉内雰囲気変動(容器耐圧値を超える炉内圧上昇や炉内温度上昇に伴うフランジからの蒸気漏れ等による圧力変動など)があったと予想される。
炉内水位・圧力変動グラフ(日経エレクトロニクス 2011/5/16号 P.85)
福島第一原発1号機の状況
(福島民報 2011年12月27日記事)
浪江町浪江の空間線量率(3月12日6時にピークあり)
(クリックすると拡大します)
→ちょうどこの頃(3月12日 5:44)、第一原発半径10km以内の住民に避難指示が出ています。
半径20km圏内に避難指示が出たのは、この日の18:25。
避難指示区域に含まれた南相馬市小高区は、すでに線量が高くなった後でした。
② 3月12日は15:36に1号機の水素爆発が起きているが、今回公開された中で最大値が観測された双葉町上羽鳥では15:00の時点で最大値が観測されていることから、水素爆発前に大量のガス漏れが生じていた。
元データ (福島県庁HP)
③ 3月12日に高線量の放射性物質を観測したのは、原発に対して北西や北方の双葉、浪江や西方の大熊まで。一方、南方の富岡、楢葉,広野町で高線量の放射性物質が観測されたのは3月15日の深夜以降である。
→風向きによって、放射線量は全く違います。また、降雨がなければ線量はすぐに下がります。
広野町二ツ沼の空間線量率
(クリックすると拡大します)
楢葉町山田岡の空間線量率
(クリックすると拡大します)
④ 観測されている放射性物質の空間線量は1000μSV/h強が最大であり、短時間で500μSV/h以下に下がっている。
仮に1000μSV/hの雰囲気にさらされた場合、100時間でがんのリスク0.5%上昇(確定的影響)、500時間で白血球の減少(確定的影響)が生じる。これに対して、早期に避難していれば、高線量の放射性物質にさらされた影響はかなり小さいと考えられる。
参考:「Newton」2011年7月号 P.39
⑤ 3月15日は原発から約20kmの楢葉町、広野町で1:00と3:00に線量のピークがあり、約40kmはなれたいわきで2:00と4:00にピークがある。これより、ガスを含んだ雲が流れていくスピードは約20km/hと推算できる。(=マラソンランナーぐらいのスピード)
参考:いわき市のデータ「いわき市:地震直後に公表されなかった放射線量データ」
【地震直後の我が家の状況】
我が家では、3月12日午後の第一原発爆発の一報を受け、その日の夕方に避難するかどうか家族会議で議論。
その結果、すぐに動かずにニュースを見ながら様子を見ることにして、すぐに避難できるように着替えや貴重品をカバンに詰め始めました。断水だったので、残っていた水と冷蔵庫の中身を利用して食事を準備。冷蔵庫の中身を処分するため、生ものを中心に調理。
真夜中に南相馬から親戚2家族が我が家に避難してきました。
3月12日の夜に南相馬市で避難準備していた親戚は、「外に出たら肌がピリピリした」と言っていました。(その頃、南相馬の線量値はピークを示していました・・・)
日付が変わって3月13日の真夜中に親戚を含めて今後について再度話し合い。
断水、ガソリン不足、食糧不足、原発周辺地域の避難指示・・・地震と原発事故の影響で、これ以上生活するのが難しいと判断。
妻と子どもは東京の妹宅のマンションに避難し、わたしは職場近くの同僚宅へ避難を決断。
3月13日の朝に朝食を取ったあと、子どもが避難する旨を学校に連絡するために手紙を持っていったところ、小学校は楢葉町から避難してきた人たちでごった返していて騒然とした雰囲気。(殺伐としていて近寄りがたい感じでした)
その後、家に鍵をかけてから車に乗り、避難開始。幸い2台持っていた車にガソリンが残っていたので無事に避難できました。
JRもバスも止まっていただけに、もしガソリンがなくて、さらに第一原発と第二原発が炉心溶融を起こして高線量の放射線を浴び続けるようなことになっていたら、何もできずにただ「座して死を待つ」ことになっていたかもしれません。 。。
ここ最近は3月11日のことを思い出すことは少なくなったのですが、「あれはひどかったなぁ・・・」と、久々に怒りがこみあげてきました。
<関連サイト>
・ 平成 23 年3月 11 日~3月 31 日(東日本大震災発生以降)にモニタリングポストで測定された空間線量率等の測定結果について(福島県庁)
→こちらに各地のグラフが掲載されています。
・ 【放射線量グラフ】福島県各地の原発事故直後の放射線量をグラフ化[福島県HPより]
2012-09-23 15:09